「水に溶けない」はずの AgCl でも、わずかには溶けています。
この「わずかな溶解」を平衡定数で定量的に扱う手法が溶解度積です。
「いつ沈殿するか」を定量的に予測できるようになると、無機分析の核心が見えてきます。
塩化銀 AgCl のような難溶性塩を水に入れると、ほとんど溶けないように見えますが、実際にはごくわずかが溶けて Ag+ と Cl− を生じます。やがて、溶解する速度と再結晶する速度が等しくなり、溶解平衡の状態に達します。
AgCl(固) ⇄ Ag+(aq) + Cl−(aq)
固体の AgCl が存在し続けている限り、飽和水溶液中では Ag+ と Cl− の濃度が常に一定の比に保たれます。これがルシャトリエの原理から導かれる、溶解平衡の特徴です。
「水に不溶」という表現は厳密には正確でなく、正しくは「難溶」です。AgCl の飽和水溶液中の Ag+ 濃度は 1.35×10−5 mol/L(25℃)──溶けているイオンが確かに存在します。この「わずかな溶解」を定量的に扱うのが溶解度積の役割です。
溶解平衡 AgCl(固) ⇄ Ag+ + Cl− に対して、平衡定数を書きます。固体の濃度は一定として平衡定数に含めないため:
Ksp = [Ag+][Cl−]この平衡定数を溶解度積(Ksp、solubility product constant)といいます。一定温度では一定の値をとります。
AgCl の飽和水溶液では [Ag+] = [Cl−] = 1.35×10−5 mol/L なので:
Ksp(AgCl) = (1.35×10−5)² = 1.82×10−10 (mol/L)²
クロム酸銀 Ag2CrO4 は Ag+ と CrO42− の比が 2:1 です:
Ag2CrO4(固) ⇄ 2Ag+ + CrO42−
Ksp = [Ag+]²[CrO42−]
各イオンの濃度を指数でべき乗して積をとることに注意してください。
| 難溶性塩 | 溶解平衡 | Ksp(25℃) |
|---|---|---|
| AgCl(白色) | AgCl ⇄ Ag+ + Cl− | 1.8×10−10 (mol/L)² |
| AgBr(淡黄色) | AgBr ⇄ Ag+ + Br− | 5.0×10−13 (mol/L)² |
| AgI(黄色) | AgI ⇄ Ag+ + I− | 8.5×10−17 (mol/L)² |
| Ag2CrO4(赤褐色) | Ag2CrO4 ⇄ 2Ag+ + CrO42− | 3.6×10−12 (mol/L)³ |
| CuS(黒色) | CuS ⇄ Cu2+ + S2− | 6.5×10−36 (mol/L)² |
| ZnS(白色) | ZnS ⇄ Zn2+ + S2− | 2.2×10−18 (mol/L)² |
AgCl(Ksp = 1.8×10−10)より AgI(Ksp = 8.5×10−17)の方が Ksp がはるかに小さく、溶解度が低い(より難溶)。15-2「ハロゲン化銀」でAgCl が NH3 水に溶けるのに AgI は溶けないのも、Ksp の大小で定量的に説明できます。
実際の水溶液で「沈殿が生じるか」を判定するには、実際のイオン濃度の積(イオン積)と Ksp を比較します。
1.0×10−4 mol/L の AgNO3 水溶液と 1.0×10−4 mol/L の NaCl 水溶液を等体積混合したとき、AgCl は沈殿するか。Ksp(AgCl) = 1.8×10−10 (mol/L)²
混合後の各イオン濃度は半分になる:[Ag+] = [Cl−] = 5.0×10−5 mol/L
イオン積 = (5.0×10−5)² = 2.5×10−9 (mol/L)²
2.5×10−9 > 1.8×10−10 = Ksp → 沈殿が生じる
AgCl の飽和水溶液に、NaCl(= Cl− を含む溶液)を加えると何が起こるでしょうか。
Cl− の濃度が増加するため、イオン積 [Ag+][Cl−] が Ksp を超えます。ルシャトリエの原理から平衡は左(AgCl 固体が生成する方向)へ移動し、AgCl の沈殿がさらに生じます。その結果、[Ag+] が低下し、AgCl の溶解度が下がります。
AgCl(固) ⇄ Ag+ + Cl−
NaCl を加える → [Cl−] 増加 → 平衡が左へ移動 → [Ag+] 低下
このように、溶解平衡に関与するイオン(共通イオン)を外部から加えることで溶解度が低下する現象を共通イオン効果といいます(14-3「ルシャトリエの原理」の応用例のひとつです)。
Ksp(AgCl) = 1.8×10−10 (mol/L)²。AgCl が x mol/L 溶けるとすると、[Ag+] = x、[Cl−] ≈ 0.10 mol/L(NaCl 由来が支配的)
Ksp = x × 0.10 = 1.8×10−10
x = 1.8×10−9 mol/L
純水中での溶解度(1.35×10−5 mol/L)と比べると、約 7500 分の 1 まで溶解度が低下しています。
Ksp は温度が変わらない限り一定です。NaCl を加えても Ksp 自体は変化しません。ただし Cl− が大量にあるため、Ag+ は「ほとんど固体側に押し込まれる」。この「押し込み」が溶解度低下の正体です。
Ksp の知識を使うと、混合した金属イオンを選択的に沈殿させて分離できます。これは無機化学の分析操作の根幹です。
CuS と ZnS は共に難溶性の塩ですが、Ksp の大きさが大きく異なります:
水溶液の pH を酸性に調整すると、H2S の電離平衡が左に移動して [S2−] が非常に小さくなります。このとき:
酸性条件では CuS だけを選択的に沈殿させることができます。中性〜塩基性にすると [S2−] が増大し、ZnS も沈殿します。
無機化学で学ぶ「金属イオンの系統分離」は、Ksp の大小と pH 調整を組み合わせた操作の集大成です。塩酸(HCl)を加えて Ag+、Pb2+、Hg22+ を AgCl などとして沈殿させ、H2S を通じて酸性中に Cu2+、Cd2+ などを沈殿させる──これらはすべて Ksp の論理に従っています。
溶解度積は平衡定数の概念を「固体の溶解」に適用したものです。多くの分野と繋がっています。
Q1. 溶解度積 Ksp の定義を、AgCl を例に述べよ。なぜ固体 AgCl を式に含めないのか。
Q2. AgCl の飽和水溶液に NaCl を溶かすと、どのような変化が起こるか。共通イオン効果の観点から説明せよ。
Q3. [Ag+] = 1.0×10−3 mol/L、[Cl−] = 1.0×10−4 mol/L の水溶液では、AgCl の沈殿は生じるか。Ksp(AgCl) = 1.8×10−10 (mol/L)²
Q4. Cu2+ と Zn2+ の混合水溶液に H2S を通じるとき、酸性条件では Cu2+ だけが沈殿する理由を述べよ。
基礎(A)から発展(C)まで段階的に取り組んでみてください。
塩化銀 AgCl の溶解度積を Ksp = 1.8×10−10 (mol/L)² として、以下の問いに答えよ。
(1) 純水に AgCl を加えたとき、飽和水溶液中の Ag+ の濃度(mol/L)を求めよ。√1.8 = 1.34 とする。
(2) 1.0×10−3 mol/L の NaCl 水溶液中での AgCl の溶解度(mol/L)を求めよ。
(1) [Ag+] = [Cl−] = s とおくと、Ksp = s²
s = √(1.8×10−10) = √1.8 × 10−5 = 1.34×10−5 mol/L
(2) AgCl が x mol/L 溶けるとすると、[Ag+] = x、[Cl−] ≈ 1.0×10−3 mol/L(NaCl 由来が支配的)
Ksp = x × 1.0×10−3 = 1.8×10−10
x = 1.8×10−7 mol/L
(1) 純水中ではAg+ と Cl− の濃度は等しくなります。(2) では NaCl 由来の Cl−(1.0×10−3 mol/L)が AgCl の溶解で生じる Cl−(= x mol/L)よりはるかに大きいため、[Cl−] ≈ 1.0×10−3 mol/L と近似できます。(1) の 1.34×10−5 に対して (2) では 1.8×10−7 と、約 74 分の 1 に溶解度が低下しています。
Ag+ を 0.10 mol/L 含む水溶液 100 mL に、1.0×10−3 mol/L の KBr 水溶液を少量ずつ加えていく。Ksp(AgBr) = 5.0×10−13 (mol/L)² とし、以下の問いに答えよ。なお、水溶液の体積変化は無視する。
(1) AgBr の沈殿が生じ始める [Br−] の最小値(mol/L)を求めよ。
(2) AgBr の沈殿が完全に生じた後([Ag+] ≈ 0 と考える)の水溶液の [Ag+] を求めよ。ただし、加えた KBr が 0.20 mol/L になったと仮定する。
(1) [Ag+][Br−] > Ksp となるときに沈殿が生じる。
0.10 × [Br−] > 5.0×10−13
[Br−] > 5.0×10−12 mol/L
沈殿が生じ始める [Br−] の最小値:5.0×10−12 mol/L
(2) 過剰 Br− が存在する状態([Br−] ≈ 0.20 mol/L)では:
Ksp = [Ag+] × 0.20 = 5.0×10−13
[Ag+] = 5.0×10−13/0.20 = 2.5×10−12 mol/L
(1) は沈殿開始条件の定義の直接適用です。[Ag+] を固定してイオン積 = Ksp となる [Br−] を求めます。(2) では Br− が大過剰なので、共通イオン効果によって Ag+ はほぼ完全に沈殿し、残留 Ag+ はわずか 2.5×10−12 mol/L まで低下します。
[Cu2+] と [Zn2+] がともに 0.010 mol/L の水溶液に、硫化水素 H2S を通じて [H2S] = 0.10 mol/L に保った。以下のデータを用いて各問いに答えよ。
(1) CuS のみを沈殿させるための [S2−] の範囲を求めよ。
(2) CuS のみを沈殿させるための [H+] の下限(最小値)を求めよ。
(1) CuS が沈殿するには [Cu2+][S2−] > Ksp(CuS):
[S2−] > 6.5×10−36/0.010 = 6.5×10−34 mol/L
ZnS が沈殿しないためには [Zn2+][S2−] < Ksp(ZnS):
[S2−] < 2.2×10−18/0.010 = 2.2×10−16 mol/L
よって 6.5×10−34 mol/L < [S2−] < 2.2×10−16 mol/L
(2) 電離定数より:[S2−] = K × [H2S] / [H+]²
ZnS が沈殿しない上限 [S2−] = 2.2×10−16 mol/L のとき:
[H+]² = K × [H2S] / [S2−] = 1.2×10−21 × 0.10 / 2.2×10−16
= 1.2×10−22 / 2.2×10−16 = 5.45×10−7 (mol/L)²
[H+] = √(5.45×10−7) ≈ 7.4×10−4 mol/L
ZnS を沈殿させないためには [H+] > 7.4×10−4 mol/L が必要。
よって下限(最小値):[H+] ≈ 7.4×10−4 mol/L
この問題は「CuS だけ沈殿させる [S2−] の範囲」→「その [S2−] を実現する pH 条件」という2段構えの設計です。H2S の電離平衡を介して [H+] と [S2−] が連動していることが核心です。[H+] を大きくする(酸性を強める)ほど [S2−] が小さくなり、Ksp が極めて小さい CuS だけを選択的に沈殿させられます。この原理が 17-6「金属イオンの系統分析」における第II族の操作の根拠です。