第14章 化学平衡

緩衝液のしくみ

酸や塩基を加えても pH がほとんど変わらない溶液、それが緩衝液です。
血液・細胞内液・実験室の試薬調製まで、生命と化学実験の至るところで活躍します。
「なぜ変わらないのか」を分子レベルで理解することがこの節のゴールです。

1緩衝液とは

緩衝液とは、少量の酸や塩基を加えても水素イオン濃度 [H+] がほぼ一定に保たれる溶液のことです。このような性質を緩衝作用(buffer action)といいます。

緩衝液は次の2種類の組み合わせからできています。

  • 弱酸とその塩の混合水溶液(例:酢酸 CH3COOH + 酢酸ナトリウム CH3COONa)
  • 弱塩基とその塩の混合水溶液(例:アンモニア NH3 + 塩化アンモニウム NH4Cl)

共通するポイントは、弱酸(または弱塩基)とその共役塩基(または共役酸)が多量に共存していることです。この「多量に共存」が緩衝作用の源泉です。

注意:強酸+その塩は緩衝液にならない

HCl(強酸)+ NaCl の混合液は緩衝液ではありません。HCl は完全に電離するので、H+ を吸収する Cl のような「調節役」が機能しないためです。緩衝作用には弱酸(または弱塩基)の存在が必須です。

緩衝液の組み合わせ使用 pH 範囲
酢酸 + 酢酸ナトリウム3.7 〜 5.7
アンモニア + 塩化アンモニウム8.4 〜 10.4
リン酸二水素ナトリウム + リン酸水素二ナトリウム5.8 〜 8.0
炭酸ナトリウム + 炭酸水素ナトリウム9.2 〜 11.0

2緩衝作用のしくみ

酢酸(CH3COOH)と酢酸ナトリウム(CH3COONa)のほぼ等量の混合水溶液を例に説明します。

水溶液中には以下の2種の電離が起きており、CH3COOH 分子と CH3COO が多量に共存しています。

CH3COOH ⇄ CH3COO + H+ (酢酸:ごく一部電離)

CH3COONa → CH3COO + Na+ (酢酸ナトリウム:ほぼ完全電離)

酸(H+)を加えたとき

加えた H+ を、多量に存在する酢酸イオン CH3COO が「吸収」します。

CH3COO + H+ → CH3COOH

H+ が酢酸分子に変わるため、[H+] はほとんど増加しません。

塩基(OH)を加えたとき

加えた OH を、多量に存在する酢酸分子 CH3COOH が「中和」します。

CH3COOH + OH → CH3COO + H2O

OH が消費されるため、[OH] はほとんど増加しません。

緩衝液はなぜ pH が変わりにくいのか
溶液中に弱酸 CH3COOH と共役塩基 CH3COO多量に共存している
酸を加えると → CH3COO が H+ を受け取り CH3COOH に変換。H+ の増加が抑えられる
塩基を加えると → CH3COOH が OH を中和して CH3COO に変換。OH の増加が抑えられる
どちらの場合も [H+] の変化が小さいため、pH がほぼ一定に保たれる
「多量」であることがポイント。CH3COOH と CH3COO が少量だと、加えた酸・塩基を吸収しきれず緩衝能が失われる

Henderson–Hasselbalch 式(発展)

緩衝液の pH は電離定数 Ka と各成分の濃度から計算できます。Ka の式を変形すると:

pH = pKa + log10([CH3COO] / [CH3COOH])

(pKa = −log Ka)。弱酸とその塩が等量([CH3COOH] = [CH3COO])のとき、log の項が 0 になり pH = pKa となります。これが緩衝能が最大になる pH です。

計算例:0.10 mol/L 酢酸 + 0.10 mol/L 酢酸ナトリウム混合液の pH

Ka = 2.7×10−5 mol/L、log10 3.0 = 0.48 とする。

Ka = [CH3COO][H+] / [CH3COOH] において、[CH3COO] ≈ [CH3COOH] ≈ 0.10 mol/L(近似)

[H+] = Ka × [CH3COOH] / [CH3COO] = 2.7×10−5 × 1 = 2.7×10−5 mol/L

pH = −log(2.7×10−5) = 5 − 0.43 = 4.57

3生体における緩衝液

緩衝液は化学実験だけでなく、生命の維持にも不可欠です。

血液の緩衝系:HCO3/H2CO3

ヒトの血液の pH は約 7.4 に保たれています。主に炭酸水素イオン HCO3 と炭酸 H2CO3(CO2 + H2O)の緩衝系がこれを担っています。

CO2 + H2O ⇄ H2CO3 ⇄ H+ + HCO3

H+ が増えたとき(酸性に傾く):HCO3 が H+ を吸収 → H2CO3 → CO2 として肺から排出

H+ が減ったとき(塩基性に傾く):H2CO3 が H+ を放出 → [H+] を補充

この系では呼吸(CO2 の排出量の調節)と腎臓(HCO3 の再吸収)が連携して pH を精密に制御します。

細胞内:リン酸緩衝系

細胞内では、リン酸二水素イオン H2PO4 とリン酸水素イオン HPO42− の緩衝系が働き、pH をおよそ 6.9 に維持しています。

H2PO4 ⇄ H+ + HPO42−

本質:血液の pH が 7.35 未満(アシドーシス)や 7.45 超(アルカローシス)になると生命の危機

正常な血液の pH 範囲はわずか 7.35〜7.45 と極めて狭い。この精密な制御があるからこそ、酵素反応や神経信号が正常に機能します。緩衝液の化学は生命科学・医療の根幹です。

発展:緩衝能の限界大学

緩衝液はあくまで「少量」の酸・塩基に対してのみ有効です。CH3COOH や CH3COO がほぼ消費されると緩衝能が失われ、pH は急激に変化します。滴定曲線でいう「中和点付近の急変」がこれに対応します。緩衝能は pKa ± 1 の pH 範囲内で最大になります。

4この章を俯瞰する

緩衝液の理解は電離平衡の応用として、多くの分野と繋がっています。

  • 電離平衡・電離定数 → 14-4「電離平衡とpHの計算」:弱酸の Ka の定義と [H+] の計算が緩衝液の pH 計算の基礎。
  • ルシャトリエの原理 → 14-3「ルシャトリエの原理」:酸・塩基を加えたときの平衡移動の方向は、ルシャトリエの原理で予測できる。
  • 中和滴定 → 5-5「中和滴定」:弱酸の滴定曲線の半当量点付近が緩衝領域。滴定曲線との対応を整理しておく。
  • 生体化学への橋渡し → 血液・細胞内液の緩衝系は生物・医療系入試の頻出テーマ。HCO3/H2CO3系、リン酸系の両方を押さえる。

5まとめ

  • 緩衝液:弱酸とその塩、または弱塩基とその塩の混合水溶液。少量の酸・塩基を加えても pH がほぼ一定
  • 緩衝作用のしくみ:酸を加えると CH3COO が H+ を吸収(→ CH3COOH)
  • 緩衝作用のしくみ:塩基を加えると CH3COOH が OH を中和(→ CH3COO + H2O)
  • 弱酸とその塩が等量のとき pH = pKa(緩衝能最大)
  • 血液の緩衝系:HCO3/H2CO3が pH 7.4 を維持。呼吸・腎臓が協調
  • 細胞内の緩衝系:H2PO4/HPO42−が pH ≈ 6.9 を維持

6確認テスト

Q1. 緩衝液になる組み合わせを次から選べ。①酢酸+酢酸ナトリウム ②塩酸+塩化ナトリウム ③アンモニア+塩化アンモニウム ④水酸化ナトリウム+塩化ナトリウム

▶ クリックして解答を表示①と③。弱酸(酢酸)とその塩、または弱塩基(アンモニア)とその塩の組み合わせが緩衝液となる。②は強酸+その塩、④は強塩基+その塩なので緩衝液にならない。

Q2. 酢酸+酢酸ナトリウムの緩衝液に少量の塩酸を加えたときの変化を、反応式を使って説明せよ。

▶ クリックして解答を表示CH3COO + H+ → CH3COOH の反応が起こり、加えた H+ が酢酸イオンに吸収される。CH3COO が多量に存在するため [H+] はほとんど増加せず、pH はほぼ一定に保たれる。

Q3. アンモニア NH3 と塩化アンモニウム NH4Cl の混合水溶液に少量の塩基(OH)を加えたときの変化を反応式で示せ。

▶ クリックして解答を表示NH4+ + OH → NH3 + H2O。加えた OH を NH4+ が中和するため、[OH] はほとんど増加しない。

Q4. 血液の pH はおよそいくらに保たれているか。また、その主な緩衝系を答えよ。

▶ クリックして解答を表示pH ≈ 7.4。主な緩衝系は炭酸水素イオン HCO3 と炭酸 H2CO3(CO2/H2O)の系。

7入試問題演習

基礎(A)から発展(C)まで段階的に取り組んでみてください。

A 基礎レベル

14-5-1 A 基礎 選択

緩衝液に関する記述として正しいものを、次の①〜⑤からすべて選べ。

  • ① 緩衝液とは、弱酸とその塩、または弱塩基とその塩を含む混合水溶液である。
  • ② 強酸と強塩基からなる塩の水溶液は、緩衝液としての性質を示す。
  • ③ 緩衝液に少量の酸を加えると、弱酸の共役塩基が H+ を吸収するため pH の変化が小さい。
  • ④ 緩衝液に多量の強酸を加えても、pH は変化しない。
  • ⑤ 血液は緩衝液として機能し、pH を約 7.4 に保っている。
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解答

①③⑤

解説

②:強酸+強塩基の塩(例 NaCl)は加水分解せず、緩衝能をもちません。④:緩衝能には限界があり、多量の強酸を加えると弱酸の共役塩基が消費されてしまい pH は急変します。①③⑤はいずれも正しい記述です。

B 標準レベル

14-5-2 B 標準 計算・論述

0.20 mol/L 酢酸水溶液 500 mL と 0.20 mol/L 酢酸ナトリウム水溶液 500 mL を混合して緩衝液 1.0 L をつくった。酢酸の電離定数 Ka = 2.7×10−5 mol/L、log10 3.0 = 0.48 として、以下の問いに答えよ。

(1) この緩衝液の pH を小数第 2 位まで求めよ。

(2) この緩衝液に 0.050 mol の NaOH を溶かしたとき(体積変化なし)の pH を小数第 2 位まで求めよ。

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解答

(1) 混合後:[CH3COOH] = [CH3COO] = 0.10 mol/L
Ka = [H+] × [CH3COO]/[CH3COOH] = [H+] × 1
[H+] = Ka = 2.7×10−5 mol/L
pH = −log(2.7×10−5) = 5 − 0.43 = 4.57

(2) NaOH 0.050 mol が酢酸 0.050 mol と中和:
[CH3COOH] = 0.10 − 0.050 = 0.050 mol/L
[CH3COO] = 0.10 + 0.050 = 0.15 mol/L
[H+] = Ka × 0.050/0.15 = 2.7×10−5/3.0 = 9.0×10−6 mol/L
pH = −log(9.0×10−6) = 6 − log 9.0 ≈ 6 − 0.95 = 5.05

解説

(1) ではCH3COOH と CH3COO が等量なので pH = pKa が成り立ちます。(2) では NaOH が酢酸を中和することで両者の比が変わります。pH の変化は約 0.5 で、純水に同量の NaOH を加えた場合(pH ≈ 12.7)と比べて著しく小さく、緩衝作用が確認できます。

採点ポイント(各4点)
  • (1) [CH3COOH]=[CH3COO]=0.10 mol/L と正しく設定(2点)、pH を正しく計算(2点)
  • (2) 中和後の各濃度を正しく求めている(2点)、pH を正しく計算(2点)

C 発展レベル

14-5-3 C 発展 論述・総合

ヒトの血液は正常時に pH 7.35〜7.45 に保たれている。以下の問いに答えよ。

(1) 血液の主な緩衝系を化学式を含めて説明し、H+ が増加したとき(アシドーシス)にどのような反応が起こるか述べよ。

(2) 激しい運動をすると乳酸が血中に放出されて pH が下がろうとするが、実際には pH の変化が小さい。この理由を緩衝作用の観点から 100 字以内で説明せよ。

(3) 過呼吸(過換気)で血液の pH が上昇する理由を述べよ。

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解答

(1) 主な緩衝系は炭酸水素イオン HCO3 と炭酸 H2CO3(CO2 + H2O)の系:
CO2 + H2O ⇄ H+ + HCO3
H+ が増加すると平衡が左に移動し、H+ を消費して H2CO3 → CO2 を生成。CO2 は肺から排出され、[H+] の増加が抑えられる。

(2) 乳酸(弱酸)から放出される H+ を血液中に多量に存在する HCO3 が吸収し(HCO3 + H+ → H2CO3 → CO2)、生成した CO2 は呼吸で排出されるため pH の低下が緩衝され、変化が小さくなる。

(3) 過呼吸により CO2 が過剰に排出されると、CO2 + H2O ⇄ H+ + HCO3 の平衡が右に移動して H+ の消費が進む。[H+] が減少するため血液の pH が上昇する(呼吸性アルカローシス)。

解説

この問題は化学と生物学が融合する典型的な医学部・薬学部入試の題材です。緩衝作用の化学的なしくみを生体の文脈で説明する練習として重要です。(3) の過呼吸による pH 上昇は、CO2 という「弱酸の源」が減ることで緩衝系のバランスが崩れる現象です。過呼吸(ストレス反応)では手足のしびれが起こることがあり、これもアルカローシスによる Ca2+ の活性低下で説明されます。

採点ポイント(各4点)
  • (1) 化学反応式を正しく記述(2点)、平衡移動と CO2 排出に言及(2点)
  • (2) HCO3 による H+ 吸収と CO2 排出の両方に言及(4点)
  • (3) CO2 減少→平衡移動→[H+] 低下 の流れを論理的に述べている(4点)