酸や塩基を加えても pH がほとんど変わらない溶液、それが緩衝液です。
血液・細胞内液・実験室の試薬調製まで、生命と化学実験の至るところで活躍します。
「なぜ変わらないのか」を分子レベルで理解することがこの節のゴールです。
緩衝液とは、少量の酸や塩基を加えても水素イオン濃度 [H+] がほぼ一定に保たれる溶液のことです。このような性質を緩衝作用(buffer action)といいます。
緩衝液は次の2種類の組み合わせからできています。
共通するポイントは、弱酸(または弱塩基)とその共役塩基(または共役酸)が多量に共存していることです。この「多量に共存」が緩衝作用の源泉です。
HCl(強酸)+ NaCl の混合液は緩衝液ではありません。HCl は完全に電離するので、H+ を吸収する Cl− のような「調節役」が機能しないためです。緩衝作用には弱酸(または弱塩基)の存在が必須です。
| 緩衝液の組み合わせ | 使用 pH 範囲 |
|---|---|
| 酢酸 + 酢酸ナトリウム | 3.7 〜 5.7 |
| アンモニア + 塩化アンモニウム | 8.4 〜 10.4 |
| リン酸二水素ナトリウム + リン酸水素二ナトリウム | 5.8 〜 8.0 |
| 炭酸ナトリウム + 炭酸水素ナトリウム | 9.2 〜 11.0 |
酢酸(CH3COOH)と酢酸ナトリウム(CH3COONa)のほぼ等量の混合水溶液を例に説明します。
水溶液中には以下の2種の電離が起きており、CH3COOH 分子と CH3COO− が多量に共存しています。
CH3COOH ⇄ CH3COO− + H+ (酢酸:ごく一部電離)
CH3COONa → CH3COO− + Na+ (酢酸ナトリウム:ほぼ完全電離)
加えた H+ を、多量に存在する酢酸イオン CH3COO− が「吸収」します。
H+ が酢酸分子に変わるため、[H+] はほとんど増加しません。
加えた OH− を、多量に存在する酢酸分子 CH3COOH が「中和」します。
OH− が消費されるため、[OH−] はほとんど増加しません。
緩衝液の pH は電離定数 Ka と各成分の濃度から計算できます。Ka の式を変形すると:
pH = pKa + log10([CH3COO−] / [CH3COOH])(pKa = −log Ka)。弱酸とその塩が等量([CH3COOH] = [CH3COO−])のとき、log の項が 0 になり pH = pKa となります。これが緩衝能が最大になる pH です。
Ka = 2.7×10−5 mol/L、log10 3.0 = 0.48 とする。
Ka = [CH3COO−][H+] / [CH3COOH] において、[CH3COO−] ≈ [CH3COOH] ≈ 0.10 mol/L(近似)
[H+] = Ka × [CH3COOH] / [CH3COO−] = 2.7×10−5 × 1 = 2.7×10−5 mol/L
pH = −log(2.7×10−5) = 5 − 0.43 = 4.57
緩衝液は化学実験だけでなく、生命の維持にも不可欠です。
ヒトの血液の pH は約 7.4 に保たれています。主に炭酸水素イオン HCO3− と炭酸 H2CO3(CO2 + H2O)の緩衝系がこれを担っています。
CO2 + H2O ⇄ H2CO3 ⇄ H+ + HCO3−
H+ が増えたとき(酸性に傾く):HCO3− が H+ を吸収 → H2CO3 → CO2 として肺から排出
H+ が減ったとき(塩基性に傾く):H2CO3 が H+ を放出 → [H+] を補充
この系では呼吸(CO2 の排出量の調節)と腎臓(HCO3− の再吸収)が連携して pH を精密に制御します。
細胞内では、リン酸二水素イオン H2PO4− とリン酸水素イオン HPO42− の緩衝系が働き、pH をおよそ 6.9 に維持しています。
H2PO4− ⇄ H+ + HPO42−
正常な血液の pH 範囲はわずか 7.35〜7.45 と極めて狭い。この精密な制御があるからこそ、酵素反応や神経信号が正常に機能します。緩衝液の化学は生命科学・医療の根幹です。
緩衝液はあくまで「少量」の酸・塩基に対してのみ有効です。CH3COOH や CH3COO− がほぼ消費されると緩衝能が失われ、pH は急激に変化します。滴定曲線でいう「中和点付近の急変」がこれに対応します。緩衝能は pKa ± 1 の pH 範囲内で最大になります。
緩衝液の理解は電離平衡の応用として、多くの分野と繋がっています。
Q1. 緩衝液になる組み合わせを次から選べ。①酢酸+酢酸ナトリウム ②塩酸+塩化ナトリウム ③アンモニア+塩化アンモニウム ④水酸化ナトリウム+塩化ナトリウム
Q2. 酢酸+酢酸ナトリウムの緩衝液に少量の塩酸を加えたときの変化を、反応式を使って説明せよ。
Q3. アンモニア NH3 と塩化アンモニウム NH4Cl の混合水溶液に少量の塩基(OH−)を加えたときの変化を反応式で示せ。
Q4. 血液の pH はおよそいくらに保たれているか。また、その主な緩衝系を答えよ。
基礎(A)から発展(C)まで段階的に取り組んでみてください。
緩衝液に関する記述として正しいものを、次の①〜⑤からすべて選べ。
①③⑤
②:強酸+強塩基の塩(例 NaCl)は加水分解せず、緩衝能をもちません。④:緩衝能には限界があり、多量の強酸を加えると弱酸の共役塩基が消費されてしまい pH は急変します。①③⑤はいずれも正しい記述です。
0.20 mol/L 酢酸水溶液 500 mL と 0.20 mol/L 酢酸ナトリウム水溶液 500 mL を混合して緩衝液 1.0 L をつくった。酢酸の電離定数 Ka = 2.7×10−5 mol/L、log10 3.0 = 0.48 として、以下の問いに答えよ。
(1) この緩衝液の pH を小数第 2 位まで求めよ。
(2) この緩衝液に 0.050 mol の NaOH を溶かしたとき(体積変化なし)の pH を小数第 2 位まで求めよ。
(1) 混合後:[CH3COOH] = [CH3COO−] = 0.10 mol/L
Ka = [H+] × [CH3COO−]/[CH3COOH] = [H+] × 1
[H+] = Ka = 2.7×10−5 mol/L
pH = −log(2.7×10−5) = 5 − 0.43 = 4.57
(2) NaOH 0.050 mol が酢酸 0.050 mol と中和:
[CH3COOH] = 0.10 − 0.050 = 0.050 mol/L
[CH3COO−] = 0.10 + 0.050 = 0.15 mol/L
[H+] = Ka × 0.050/0.15 = 2.7×10−5/3.0 = 9.0×10−6 mol/L
pH = −log(9.0×10−6) = 6 − log 9.0 ≈ 6 − 0.95 = 5.05
(1) ではCH3COOH と CH3COO− が等量なので pH = pKa が成り立ちます。(2) では NaOH が酢酸を中和することで両者の比が変わります。pH の変化は約 0.5 で、純水に同量の NaOH を加えた場合(pH ≈ 12.7)と比べて著しく小さく、緩衝作用が確認できます。
ヒトの血液は正常時に pH 7.35〜7.45 に保たれている。以下の問いに答えよ。
(1) 血液の主な緩衝系を化学式を含めて説明し、H+ が増加したとき(アシドーシス)にどのような反応が起こるか述べよ。
(2) 激しい運動をすると乳酸が血中に放出されて pH が下がろうとするが、実際には pH の変化が小さい。この理由を緩衝作用の観点から 100 字以内で説明せよ。
(3) 過呼吸(過換気)で血液の pH が上昇する理由を述べよ。
(1) 主な緩衝系は炭酸水素イオン HCO3− と炭酸 H2CO3(CO2 + H2O)の系:
CO2 + H2O ⇄ H+ + HCO3−
H+ が増加すると平衡が左に移動し、H+ を消費して H2CO3 → CO2 を生成。CO2 は肺から排出され、[H+] の増加が抑えられる。
(2) 乳酸(弱酸)から放出される H+ を血液中に多量に存在する HCO3− が吸収し(HCO3− + H+ → H2CO3 → CO2)、生成した CO2 は呼吸で排出されるため pH の低下が緩衝され、変化が小さくなる。
(3) 過呼吸により CO2 が過剰に排出されると、CO2 + H2O ⇄ H+ + HCO3− の平衡が右に移動して H+ の消費が進む。[H+] が減少するため血液の pH が上昇する(呼吸性アルカローシス)。
この問題は化学と生物学が融合する典型的な医学部・薬学部入試の題材です。緩衝作用の化学的なしくみを生体の文脈で説明する練習として重要です。(3) の過呼吸による pH 上昇は、CO2 という「弱酸の源」が減ることで緩衝系のバランスが崩れる現象です。過呼吸(ストレス反応)では手足のしびれが起こることがあり、これもアルカローシスによる Ca2+ の活性低下で説明されます。